2014年7月7日月曜日

7月6日の説教



人は自分を吟味しなさい
第一コリント書11章23-34
契約のしるし
男と女は一生の契約を結ぶと、私たちはこれを『結婚』と言います。友達と親戚をを呼び集めます。結婚式を行います。牧師は教会で二人を一生真実を守ることを聞きます。すごやかな時も、病む時にも。また契約の印として二人は結婚指輪をお互いにつけます。二人の証人は前に呼ばれますし、牧師が新郎新婦のために祈ります。
ドイツの伝統によって右手の指輪は結婚のシンボルです。若者が結婚のパートナーを探すなら、右手を見て、その人はまだ自由かあるいはもう結婚されているかが分かります。右手の指輪は結婚契約のしるしです。二人が神様の前に結んだ契約を指しています。
私達が先週学んだエレミヤ31,31-34の約束にも、そんための印があります。ある意味には聖餐式は、神様が私たち人間と結ばれた契約の印です。杯から飲むこと、パンを裂くことは私達が目に見えるしるしです。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と主イエス様が言われました。25節

1.新しい契約の代価
「結婚したら1マルクはもはや一マルクではなく50フェニックになった。」と昔ドイツで言われました。現代の言葉で一ユーロは50セントになった。その頃に夫はお金を設けて、それを妻と分けました。夫は家族のための財政的な養いの責任を持っていました。ある程度の給料がないと結婚することは無理でした。妻は子供や家族のための責任を持っていました。
契約はただではありません。両方のために特権と責任があります。神様との新しい契約も両方には求められることと与えられることがあります。人間には神様への信頼と御言葉への従順が求められます。そして神様は御自分のひとり子の命を捧げました。それがなかったら、この契約は考えられません。
31:31 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。34後半・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。エレミヤ31章。この新しい契約の土台は私たちの罪の赦しです。
こういう言葉を聞くと、私たちはイエス様の十字架で流された御血潮を考えます。罪のある人が神様と契約を結ぶために生贄の血が流されなければなりません。聖書は古い契約と新しい契約のことを語っています。またヘブル書9,18にはしたがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。とあります。神殿の祭壇と生贄は人の罪の赦しのために必要でした。しかし神様いつも神殿で生贄を捧げなければならない、古い契約より、一度罪を贖う新しい契約を設けました。イエスキリストの贖いについてヘブル書10,12-14には12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。そして私達の救いの代価についてイエス様は言いました。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。マタイ20,28結局、新しい契約の代価は神の子の御血潮です。

2誰がこれを払えますか?
神の子、イエスキリストの他に誰がこれを払えますか?私達の罪の贖いを支払うのが誰ですか?破産に向っている会社のことを考えて下さい。誰がこの企業を助けることが出来ますか?その会社のことが好きな人でしょう。これは確かに正しいですが、これだけでは足りません。その会社を動かす資本を持っていないと駄目です。
罪人の贖いについてこれは、私達を救う方は罪のない方でないとだめだと言う意味です。神様と同じレベルにいる罪犯したことのない方です。詩篇49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。8 ・・たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。・・どんな人でも他の人を罪から贖うことが出来ません。人を神様と和解させるほどの代価をだれも払えません。ただ、人となられた神に子、イエス・キリストはこの不可能のように見えることが出来ました。そのために主イエス様は最後の晩餐に言いました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25節。
釈迦様も、モハメドさんも、ダライラマさんも人を神様と和解させることは出来ません。あの有名な宗教家の一人も私達のために自分の血を流しませんでした。そしてもし彼があのくらいのことをしたとしても、彼は罪人だから私たちを贖う資格はありません。イエス様のみ私達を神様の御怒りからできます。そのために主の御名を永遠に賛美します。

3 私たちは主の晩餐をどういうふうにお祝いしますか?
27節に、私達がこれをふさわしい方法でこれを行うように注意されています。これはどういう意味ですか?21節にパウロはふさわしくないお祝いを説明します。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。コリントの教会はエルサレムの初代教会とは違います。エルサレムにはイエス様と一緒に食事することを覚えていた人々はかなりいました。そしてユダヤ人は過ぎ越しの祭りの食事会のことも覚えていました。それは家族の中のお祝いの雰囲気でした。教会の他のメンバーがそれぞれの家に集まっていたとしても、みんなは一つの大きな家族と言う気持ちでした。
しかし福音はローマ帝国の違う所に広まりました。例えばギリシャと他のところには社会的な文化は違いました。イスラエルには奴隷はありませんでした。イスラエルの外では色々な違う背景の人たちは教会に集まりました。自分の時間をいつでも自由に決める金持ちもいましたし、長くは足らなければならない奴隷達もいました。主の晩餐を夕方にしますと、金持ちはすぐ集まりましたが、奴隷達は遅くなりました。お互いを待ち合わせる習慣はありませんでした。みんなは最後の奴隷が来るまで待つのはいやでした。教会の交わり、仲間意識はありませんでした。使徒パウロはこれをふさわしくないと言っています。こういう場合は、食事が中心です。イエス様の救いは忘れらています。

4 本当に大事なのは
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。28節。この吟味の意味は何でしょうか?私たちは自分の最近の生活を振り返っていくことです。ひょっとしたら主が私達に、私達が他人を傷つけたこと、主の愛を忘れたこと、自己中心のわなに入ってしまったこと、誘惑に落ちてしまったことを示してくださるかもしれません。あるいは私達が主の声に従わなかった所を示してくださるかもしれません。
使徒パウロは、私達がこの自己吟味を無視する場合の結果を示しています。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。というのは私たちは教会で礼拝後聖餐式を行いますが、主が御体を捧げて下さったことをあまり考えないでいます。それは、私達がいつも聖餐式に特別な気持ちを感じると言うことではありません。素直な人は気持ちを作ることは出来ません。神様は私達に不自然なことを期待しません。しかし主が私達のためにご自身の命を捧げたことを感謝することです。この感謝を無視するには、大変な結果になります。それはコリントの教会に見えました。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。これは、クリスチャンが自分の信仰の土台、すなわちキリストの十字架の死に対して無関心になっている結果です。

5 尊い恵みへの招き
金曜日の祈祷会のテキストはマタイ18,15-35でした。これは赦しについてです。そして私は人を赦す豊かな心になるために、まずイエス様の赦しを受け入れなければなりません。罪の赦しを受ける道は凄く簡単です。ヨハネの第一の手紙1,9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。私たちはこれをどうしてもやりたくないです。そしてこのままで聖餐式に参加します。私達の罪のない者が一人もいません。そして主はだれをも追い出しません。ユダさえも最後の晩餐に参加しました。(どうして私たちは聖餐式に参加出来るために、人がバプテスマを受けなかればならない思っているか、私は不思議に思います。聖書にそんなことは書いてありません。)使徒パウロがここで求めていることは、自分を吟味することです。それは、私達が神様の恵みの大きさを知るためです。
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。28節
私たちは、自分が罪人であることを認めなければなりません。その上で悔い改めて、神様の恵みを受け入れて、パンと杯を受けなければなりません。自分で神様の恵みを経験したことのない人は、恵みを分かち合えることは無理です。主の招きを聞き、これに従ってください。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11章

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