2014年7月14日月曜日

7月13日の説教



わたしのもっとも小さい兄弟の一人
マタイ25章31-46
1最後の審判
大きな目的
私は今日おそらく最後にここで立ち,神の御言葉を解き明かします。それに相応しく私はが、私達がみんな迎えている目的を意識させていただきます。最後の審判は私達が普通、秋に取り扱いたい課題ですが。花が枯れて、葉っぱが木から落ちる季節に私達は死と永遠のことについてもっと自然に考えるかもしれません。しかし実は私たちはいつでも神様の世界に召される可能性があります。私たちはどんな時にも神様の前に立つ準備をしなければなりません。又、救われている人は自分勝手な生活をするべきだと聖書のどんな箇所にも書いてありません。例えば放蕩息子ははっきりと知っていました。『私がうちに帰ったら、私はお父さんに従う』と。聖書の色々なところには、神の敵に対する戦いが最終的に終わった時に、最後の審判が行われる、と書いてあります。神様は世界のすべての人々を裁きます。
大きな別れ
32節には、「すべての国々の民が、その御前に集められる。』と書いてあります。そして王の王である神様は、羊飼いがその群れを羊と山羊とに分けるようにみんなを分けます。その時に準備が完成された神の国へ招かれる人がいます。そして外に残る人もいます。これに似ている動きが今も始まっています。悔い改めへのアッピルは聞こえます。このアッピールに従う人もいます。『私は神様の前に罪人だ。罪の赦しが必要だ。永遠の生命が必要だ』と分かっている人がいます。しかし、まだためらっている人もいます。『もうすぐに従うべきだろう?もう少し人生を楽しんだ方がどうか?』と迷う人もいます。そしてイエス様が言われた通りに『自分人生を神様に捧げる人はそれを得るのです。』楽しもうと思ったコースはちっとも楽しくないです。というのは、半分イエス様に従い、半分に自分の楽しみをしたい、この二つの間にさ迷うことは一番惨めです。全てをイエス様に委ねることはまだ何時か出来る、と思っています。しかしこれは悪魔の大きな嘘です。私達がイエス様を受け入れる時期はいつまでも延ばすことは出来ません。主の再臨の時,遅くても最後の審判の時は遅いです。神様は恵み深いお方です。しかし、神様の恵みには限界があります。恵みの時の終わりがあります。
2審判の基準
神様は私達をどういうことにおいて裁かれますか?主イエス様はここで具体的なことを教えています。神様の国に迎えられる祝福される人は誰ですか?『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』結局,主イエス様に困った時 助けてあげた人たちです。
そして呪われて、永遠の刑罰に入らなければならない人達は?それは41―43節に書いてあります。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』しかし、もしメディヤの人が来て、天国に入るはずの人たちに聞けば「あなた達は立派ですがおめでとうございます。本当にお腹の空いているイエス様を見て食べさせましたか?どういう気持ちでしたか?」その本人達は困った顔をして『いいや私達もはっきり分かりません。』と答えたでしょう。
そして永遠の滅びに行くはずの人たちにこう言う質問したことでしょう。『酷いことです、ね。あなた方の目の前に暑さで悩んでいて、のどの渇いたイエス様のお顔があったのに、どうして水いっぱいくらい上げませんでしたか?』そしてこの人たちも『いいえ、そんなことを見ませんでしたよ。もしイエス様が見えたらもちろん優しく取り扱ったに違いありません。』
もし主イエス様が御自分の姿を現されたら、もちろんクリスチャンは主を受け入れたに違いありません。どこの教会の役員会でもイエス様を追い出したことはないでしょう。

3.主はこの御言葉を通して何を語りますか?
34節に祝福された人々は困っていた兄弟姉妹たちを助け上げた人々です。そして41節に呪われた人々は困った兄弟姉妹たちの助けを断った人々です。マタイの福音の他の箇所にも主イエス様は彼の名前の故に弟子達を助けた行為の報いがあります。10,40-42
10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
ここから行きますと,弟子達を助ける人に主ご自身が報いてくださると考えられます。
一つの誤解に気をつけたいです。それは、天国に入るために人を助けてあげましょう。これは間違いです。ボイスカウトの約束は「毎日一つのよい行い」と言うことです。それであるお祖母さんが交差点で立っていて、ボイスカウトに道路の向こう側に引っ張られた、しかしお祖母さんは全然そこへ行きたくなかった、という冗談があります。ちょっと古いですけれども「天国に行くために良い行いを」と言う考えのアヤマリを指しています。私が天国に行きたいために他の人を利用してはいけない、と言う注意です。
では、私たちは何を学ばなければなりませんか?それは人の無限な価値です。創造主の神様は人に御自分の息を吹き込まれた、と創世記2章に書いてあります。私たちは神様の作品です。弟子達は主と一緒にいる3年間に一つの大事なレッスンは人間を尊重することです。非人間的な人物の一人はルカ18,1-8に登場する裁判官です。彼について主は彼が神を恐れず、人を人とも思わない裁判官だと言いました。2節.これに対照的に私たちは人を神様の栄光のために創造された被造物として認めるべきです。

4.神様の聖なる愛
神様の目に人間はどういう価値がありますか?神様は私達の贖いの代価としてそのひとり子を捧げる覚悟が出来ました。今日には人々についてどれほどのみにくい言葉は使わされるでしょう!これは創造主に対して失礼です!例えば他人に迷惑をかけた自殺者はどれほど軽蔑されているでしょう!だれもあの人がどれだけの戦いを通らなければならなかったことを考えません。その人はどれだけの失望を通ったでしょう。
しかし人々が感じた悩みと失望はその前に神様の前に通らなければなりませんでした。創造主はもう既に全ての辛さや苦しみを感じました。神様は全ての悩みを感じておられるので、悩んでいる私達を慰めることが出来ます。神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。黙示21,3.4この地上にいる一人一人の人間は神様に愛されています。そしてそのために私たちはこれほど大切です。もし私達が他の人をかわいそうに思って、彼を慰めたい時、彼を助けたい時に私たちは神様を賛美します。
私達がどうやって人を神の被造物として尊敬することが出来ますか?
   私たちは神の言葉を聞くことによって
神様は御自分の作品を大事にします。私達が思うよりももっと大事に思っておられます。神様は人間が滅びることを望みません。神様は私達に何回も悔い改めのチャンスを与えてくださいます。 エゼキエル33,11彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』ホセア11,8.9エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。9 わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない
   私たちは神様と人について話す時に。特にとりなしをする時に

これからの牧師のない時期にはチャンスもあります。これは教会員みんながこの二つのことに専念する場合、もし皆さんが御言葉に主の御声を求めているなら、又みんながお互いのために祈るなら、この教会はまた祝福されます。しかし霊的な回復のために霊的な指導が必要です。

2014年7月7日月曜日

7月6日の説教



人は自分を吟味しなさい
第一コリント書11章23-34
契約のしるし
男と女は一生の契約を結ぶと、私たちはこれを『結婚』と言います。友達と親戚をを呼び集めます。結婚式を行います。牧師は教会で二人を一生真実を守ることを聞きます。すごやかな時も、病む時にも。また契約の印として二人は結婚指輪をお互いにつけます。二人の証人は前に呼ばれますし、牧師が新郎新婦のために祈ります。
ドイツの伝統によって右手の指輪は結婚のシンボルです。若者が結婚のパートナーを探すなら、右手を見て、その人はまだ自由かあるいはもう結婚されているかが分かります。右手の指輪は結婚契約のしるしです。二人が神様の前に結んだ契約を指しています。
私達が先週学んだエレミヤ31,31-34の約束にも、そんための印があります。ある意味には聖餐式は、神様が私たち人間と結ばれた契約の印です。杯から飲むこと、パンを裂くことは私達が目に見えるしるしです。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と主イエス様が言われました。25節

1.新しい契約の代価
「結婚したら1マルクはもはや一マルクではなく50フェニックになった。」と昔ドイツで言われました。現代の言葉で一ユーロは50セントになった。その頃に夫はお金を設けて、それを妻と分けました。夫は家族のための財政的な養いの責任を持っていました。ある程度の給料がないと結婚することは無理でした。妻は子供や家族のための責任を持っていました。
契約はただではありません。両方のために特権と責任があります。神様との新しい契約も両方には求められることと与えられることがあります。人間には神様への信頼と御言葉への従順が求められます。そして神様は御自分のひとり子の命を捧げました。それがなかったら、この契約は考えられません。
31:31 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。34後半・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。エレミヤ31章。この新しい契約の土台は私たちの罪の赦しです。
こういう言葉を聞くと、私たちはイエス様の十字架で流された御血潮を考えます。罪のある人が神様と契約を結ぶために生贄の血が流されなければなりません。聖書は古い契約と新しい契約のことを語っています。またヘブル書9,18にはしたがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。とあります。神殿の祭壇と生贄は人の罪の赦しのために必要でした。しかし神様いつも神殿で生贄を捧げなければならない、古い契約より、一度罪を贖う新しい契約を設けました。イエスキリストの贖いについてヘブル書10,12-14には12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。そして私達の救いの代価についてイエス様は言いました。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。マタイ20,28結局、新しい契約の代価は神の子の御血潮です。

2誰がこれを払えますか?
神の子、イエスキリストの他に誰がこれを払えますか?私達の罪の贖いを支払うのが誰ですか?破産に向っている会社のことを考えて下さい。誰がこの企業を助けることが出来ますか?その会社のことが好きな人でしょう。これは確かに正しいですが、これだけでは足りません。その会社を動かす資本を持っていないと駄目です。
罪人の贖いについてこれは、私達を救う方は罪のない方でないとだめだと言う意味です。神様と同じレベルにいる罪犯したことのない方です。詩篇49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。8 ・・たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。・・どんな人でも他の人を罪から贖うことが出来ません。人を神様と和解させるほどの代価をだれも払えません。ただ、人となられた神に子、イエス・キリストはこの不可能のように見えることが出来ました。そのために主イエス様は最後の晩餐に言いました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25節。
釈迦様も、モハメドさんも、ダライラマさんも人を神様と和解させることは出来ません。あの有名な宗教家の一人も私達のために自分の血を流しませんでした。そしてもし彼があのくらいのことをしたとしても、彼は罪人だから私たちを贖う資格はありません。イエス様のみ私達を神様の御怒りからできます。そのために主の御名を永遠に賛美します。

3 私たちは主の晩餐をどういうふうにお祝いしますか?
27節に、私達がこれをふさわしい方法でこれを行うように注意されています。これはどういう意味ですか?21節にパウロはふさわしくないお祝いを説明します。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。コリントの教会はエルサレムの初代教会とは違います。エルサレムにはイエス様と一緒に食事することを覚えていた人々はかなりいました。そしてユダヤ人は過ぎ越しの祭りの食事会のことも覚えていました。それは家族の中のお祝いの雰囲気でした。教会の他のメンバーがそれぞれの家に集まっていたとしても、みんなは一つの大きな家族と言う気持ちでした。
しかし福音はローマ帝国の違う所に広まりました。例えばギリシャと他のところには社会的な文化は違いました。イスラエルには奴隷はありませんでした。イスラエルの外では色々な違う背景の人たちは教会に集まりました。自分の時間をいつでも自由に決める金持ちもいましたし、長くは足らなければならない奴隷達もいました。主の晩餐を夕方にしますと、金持ちはすぐ集まりましたが、奴隷達は遅くなりました。お互いを待ち合わせる習慣はありませんでした。みんなは最後の奴隷が来るまで待つのはいやでした。教会の交わり、仲間意識はありませんでした。使徒パウロはこれをふさわしくないと言っています。こういう場合は、食事が中心です。イエス様の救いは忘れらています。

4 本当に大事なのは
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。28節。この吟味の意味は何でしょうか?私たちは自分の最近の生活を振り返っていくことです。ひょっとしたら主が私達に、私達が他人を傷つけたこと、主の愛を忘れたこと、自己中心のわなに入ってしまったこと、誘惑に落ちてしまったことを示してくださるかもしれません。あるいは私達が主の声に従わなかった所を示してくださるかもしれません。
使徒パウロは、私達がこの自己吟味を無視する場合の結果を示しています。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。というのは私たちは教会で礼拝後聖餐式を行いますが、主が御体を捧げて下さったことをあまり考えないでいます。それは、私達がいつも聖餐式に特別な気持ちを感じると言うことではありません。素直な人は気持ちを作ることは出来ません。神様は私達に不自然なことを期待しません。しかし主が私達のためにご自身の命を捧げたことを感謝することです。この感謝を無視するには、大変な結果になります。それはコリントの教会に見えました。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。これは、クリスチャンが自分の信仰の土台、すなわちキリストの十字架の死に対して無関心になっている結果です。

5 尊い恵みへの招き
金曜日の祈祷会のテキストはマタイ18,15-35でした。これは赦しについてです。そして私は人を赦す豊かな心になるために、まずイエス様の赦しを受け入れなければなりません。罪の赦しを受ける道は凄く簡単です。ヨハネの第一の手紙1,9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。私たちはこれをどうしてもやりたくないです。そしてこのままで聖餐式に参加します。私達の罪のない者が一人もいません。そして主はだれをも追い出しません。ユダさえも最後の晩餐に参加しました。(どうして私たちは聖餐式に参加出来るために、人がバプテスマを受けなかればならない思っているか、私は不思議に思います。聖書にそんなことは書いてありません。)使徒パウロがここで求めていることは、自分を吟味することです。それは、私達が神様の恵みの大きさを知るためです。
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。28節
私たちは、自分が罪人であることを認めなければなりません。その上で悔い改めて、神様の恵みを受け入れて、パンと杯を受けなければなりません。自分で神様の恵みを経験したことのない人は、恵みを分かち合えることは無理です。主の招きを聞き、これに従ってください。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11章