2014年9月26日金曜日

クリスチャンの希望



生みの苦しみの初め
マルコ13,3-13
私たちが恐れること
主が5-7節に並べることはみんな恐ろしいこと、私たちの心に恐怖を起こすことです。信者を誘惑に導く偽キリスト、戦争と戦争のうわさ、暴動、飢餓、地震。自分がメッシアだと出張している人たちは聖書の時代から私達の時までいたのでしょうか?例えばバーバラと僕が40年前に日本についた頃、東京の道路には韓国人のムンさんの弟子達がよく見られました。彼らはそのグループを統一協会という名前をつけました。たくさんの若者を引っ張り、利用しました。ムンさんが再臨のキリストだと教えました。その誤りに気づいた若者達はがっかりして、聖書と教会のことが嫌になりました。
ニュースは戦争と戦争のうわさでいっぱいです。イスラミック・ステートと自分を名乗る人たちは実は強盗や殺人者のグループです。彼らは他の人たちを残酷な振る舞いで脅そうとします。トロコの境まで難民たちを家畜のように追い立てます。大きな損害を起こします。世界中に飢餓の問題を拡大します。一番の被害者は子供と年寄りです。地震は大都市を壊します。人々はパニック状態に落ちます。全世界は燃えてしまうような気持ちです。でも主イエス様の8節の言葉は、「これらのことは、産みの苦しみの初めです。』というメッセージです。この主の言葉は、世の滅びではなく、人間のための希望を指しています。この古い世の死は一番ではなく、新しい世の誕生は目的です。私たちは新しいスタートを期待することが出来ます。
主はヨハネ16,21にも出産の比喩を使います。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。これは、主が地上を離れた時期の弟子達の状態を指しています。主が昇天なさってからの時期です。弟子達はその時まですぐ主の御許に走って、困ったことを全て報告できたのです。主と語り、主のアドバイスを聞きことが出来ました。それで彼らは安心しました。イエス様が十字架で死なれてからの悲しみさえも、イースターに消えました。主がしに打ち勝った真理を把握する喜び弟子たちの心に入りました。主は本当に神様に約束されたキリストだ、という確信が与えられました。
しかし主の昇天は、イエス様がこの目に見える世界から神様の見えない世界に帰る時です。主はもはや目に見える形で共にいません。これは悲しいです。でも主の再臨は必ず起こります。その時は永遠の喜びが始まります。これは全ての悩みの終わりです。
子供を出産する時にお母さんは苦しみます。これは陣痛とも言います。大変苦しいですが、喜ばしい結果がついてきます。それは新しい命です。可愛い赤ちゃんが与えられます。そしてお産の後の写真を見ると、お母さんの顔は落ち着いています。目には喜びが輝いています。
終末の恐ろしいことは一時的です。神様の新しい世界の喜びの輝きで前の苦しみは忘れられます。神様の新しい世界についてこう書いてあります。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21,3.4)色々な恐ろしいことは最終的に神様の良い目的を完成するのです。私達に与えられた希望は変わりません。私たちは迷わされなくて良いのです。
迫害
9-13 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。10こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。11 彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。12また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。13また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます
主を愛する人は、私達が楽な生活をすることは一番の目的ではない、と分かっています。それよりも福音は大事です。世界の全ての人々はイエス様を知らなければなりません。9節だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。使徒たちは、イエス様のために苦しみを受けることを光栄として感じました。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。使途5,41.
10節は迫害を受けたクリスチャンにも喜ぶべきことがある、と指しています。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。これは神様のご計画です。そしてだれもこれを変えることが出来ません。もし全ての民族は福音を知るはずなら、どんな迫害も福音先進を止める事が出来ないはずです。使徒の働きを読むと、ユダヤ人の指導者がいくらクリスチャンたちの伝道を止めろうとしても、それは中々成功できないことが分かります。ますます多くの人々はイエス様のよみがえりの証を聞きました。エルサレムの議会の方達は一生懸命に福音宣教を妨げようとしました。イエス様についての説教を黙らせようとしました。しかし、どういう結果になりましたか?弟子達は夜牢屋に入れられましたが、彼らは翌朝もう神殿に立って、イエス様がキリストだと聖書から教えました。指導者たちが彼らを真剣に忠告したら、彼らは、イエス様について黙っていられないと答えました。福音を伝えないことは神様について不従順だ、と言いました。
11節に弟子達が迫害を恐れなくて良いと励まされます。これは世的なリーダー達が自分達のフォロワーに言うことと違います。世のリーダーはファン達に『頑張れ。お前達の努力によってわれわれの運動が成功する』と言います。でもイエス様は「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」と言います。目に見えない神様の力を頼れば良い、ということです。『まだ誰も信じていない?お前達もっと頑張りなさい!』そしてファン達は一所懸命に頑張ります。これは最終的にどうなるか、私たちは想像出来るでしょう。すっでに疲れている人がさらに頑張っているといつのまにかバーンアウトになります。しかし、イエス様の言葉は違います。お前達が頑張らなくても、共におられる聖霊様が語ります。イエス様の証は聖霊様によって強められます。私達が疲れているなら、それをイエス様の前に認めて良いです。そして主は私達を励まして下さいます。
もちろん、クリスチャン生活がいつもらくだ、と主は言われません。(駱駝はらくだ)弟子たちも世の憎しみに会うことはあります。また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。と12節13節にあります。迫害が激しくなると,クリスチャンたちもお互いを裏切るでしょう。マタイ24,12にはこういう霊的な温度が予告されています。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。その結果は12.13節の雰囲気です。その時に私たちは文字どおりに裁判官まで引っ張られなくても、お互いを愛し合うことは少なくなります。主に忠実に生きたいなら、悩みは多いです。
でもこれは大変に聞こえますが、実は魂の敵は負かされてあります。敵は私達を迷わそうとします。彼は本当の力がもうありません。主イエス様を信じる人にはいつでも希望があります。最後まで耐え忍ぶ人は救われます

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