2014年9月16日火曜日

終末の始まり



終末の始まり
3:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
雰囲気を壊すイエス様
そういうふうに見えます。友達はエルサレムの神殿の雰囲気と建物の美しさをほめています。こういう神殿は少し神様の御臨在を思い起こすはずでした。神様のことを教えておられる主はこの感激に対して『全ては滅びる』しか答えません。
もちろんこういう反応は混乱や怒りを起こすはずでしょう。その時までの雰囲気は変わるでしょう。例えば人々が暖かい所で休憩を過ごす夢を語る時に、違う人は『あの所にはいつも悪い天気だ』と言っています。もちろん先の人は気分が下がるでしょう。でもイエス様はこういうふうに人々をいじめるつもりではありません。
1主は何故神殿の破壊を預言するでしょうか?
主は弟子達を神殿のない時期のために備えます。神殿の建物は未来に見えなくなります。神殿の中の礼拝はなくなります。主の弟子達がユダヤ人の礼拝からクリスチャンの礼拝に移る時期はきます。主イエス様は現れる所で物事の本当の意味が見えるようになります。少し前にエルサレムの住民たちは賛美しながら主の入城を行いました。彼らはイエス様を神様の約束された救い主として迎えました。しかし、この感激は主を頼る信仰の元はありません。これはいちじくの木のイベントで明確になりました。(マルコ11,12-14)
11 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
このいちじくの木はイスラエル、神様の旧約の民の象徴です。イスラエル人の、主の入城の賛美は気持ちだけでした。形に過ぎません。神様が求める実:従順や信仰とは違います。主はこういう信仰に満足はしません。いちじくの木を呪いました。木は根まで枯れていました。
私達が主に捧げる祈りや賛美はどうですか?それも時には形が多いけれども、内容はすくないではありませんか?私達の気持ちだけではたりません。私たちは主に私達の心をも捧げるはずではないですか?形と内容とを分けなければなりません。多くのクリスチャンはこういう面を見分けることは難しいです。しかし主は形だけではなく、内容をも求めておられます。主は葉っぱだけではなく、実をも求めておられます。
2大きな食い違い
弟子達が見ている場面とイエス様が見ておられる場面は違いました。弟子達は長い間礼拝が持たれた場所、という宮を見ています。多くの場合敵の攻撃から守られた強い石を見ます。安心します。ルカは供え物として捧げられた宝石のことも書きました。(つい最近発見されたブルームーンのような宝石もあったかもしれません。)とにかくたくさんのエルサレムの住民は神殿を逃れ場として知っていました。
もちろん、主も過去の神様の守りのことを知っておられました。でも、主は未来のことも見る事が出来ます。そして未来にはこの、神様の守りがないことをご存知です。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。これは、神様の見守りがもはやないからです。イスラエルの指導者はメシアを異邦人に渡す時が来ます。その時に彼らは『彼の血が私達と子孫の上にかかっても良い』という恐ろしい言葉を語ります。それは、
AD70年、ローマ人とユダヤ人の戦争には、神様はもはやユダヤ人のがわで戦っていなかった結果になりました。神殿と全エルサレムは破壊されることになりました。主はこれを予告しました。
僕はむかし信じることは落胆的に考えることと同じだと思いました。信じることはいつも最善なことになると思うことだと思いました。でも、これは間違いでした。信じることは物事を神様の目で見ることです。それは時には思ったより良くなります。時にはもっと悪くなります。物事を神様の面から見ることはとにかく真理を認めることです。神様は光です。神様はすべてをそのままで分かります。
3.これは私達のためにどういう意味がありますか?
主は弟子達に注意しました。『神殿はあなた達をもはや守れません。もうすぐ終末の時です。』弟子たちはこれに反論しません。彼らは主を信じて、もっと詳しいことを聞きました。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」4節
彼らが良く迫害に備えるように主は徹底的に答えて下さいました。というのは、イエスキリストの教会で救いの歴史の新しい時期が始まります。神様のイスラエルとの契約(古い契約)に続いて、神様の世界の全ての人々の契約が始まります。この新しい契約はただ一つの国民にかぎいているのではなく、この契約は世界の全ての国民に空いてあります。悔い改めたい人は誰でも神様との新しい関係を始めることが出来ます。自分の罪を告白して、これを真剣に止めたい人は罪の赦しが得られます。
教会歴史を眺めると、いつも旧約の律法に対する質問が起きます。『クリスチャンは十戒に触れられている安息日を守らなくても良いですか?クリスチャンが神様に祝福されるために自分の収入の十分の一を捧げなくて良いですか?又イスラエル人たちが大事にした神殿は私達と関係ない建物ですか?』例えばAD70年にはユダヤ人が神殿をローマ人に対して守るために一生懸命に戦いました。彼らは最後にだれも生き残らないまで戦いました。しかしクリスチャン達はどうしましたか?彼らはマルコ13,14-20の御言葉を文字通りに信じました。
13:14 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
13:15 屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中に入ってはいけません。
13:16 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
13:17 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
13:18 ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。
13:19 その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。
13:20 そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです
戦うな、逃げなさい!という意味です。そして主の弟子達はこの主の言葉に従い、自分の命を守りました。
私たちは何を逃げるべきですか?どこへ身を避けるべきですか?
昔はやめるべきことは、形だけに固まってしまった宗教です。その時それはユダヤ人の礼拝だったでしょう。でも、現代主イエス様を神様から使わされているキリストだと信じているユダヤ人がいます。それはmessianic Jewsです。私たちは彼らから聖書について色々を学ぶことが出来ます。使徒パウロが預言されたとおりです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。ローマ11,12神様の恵みによって、もう新しい命が始まっているのです!
私達人間は普通新しいことに対して不信を抱いています。すべてはいつものように続くことなら、私たちは満足します。しかし、主のビジョンの通りに神殿の礼拝は完全に終わりました。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。その通りになりました。新しい教会はこの、主の忠告を聞き、これに従いました。私達が命のない形から離れて、聖霊の導きに従うなら、私達もリバイバルを経験することが出来ます。

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