2014年6月30日月曜日

神様との新しい契約



神様との新しい契約
エレミヤ書31,31-34
1.     先祖たちとの契約
32節にエレミヤ預言者は古い契約の悪い所を指しています。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。神様は先祖たちの手を握り、彼らを奴隷の状態から自由へ導いて下さいました。イスラエルの子孫達がエジプトで圧迫された時に、彼らは神様に叫びました。そして主はふさわしい助け手を用意して下さいました。神様は荒野でモーゼに現れて、エジプトの王に行くように励ましました。王が神の言葉に不従順の時に、主はエジプトを十の災いで打ちました。その災いは次次にもっと酷くなりました。やがてエジプト人はイスラエル人を解放しました。
しかし、神様がモーゼをシナイ山へ呼んでいた頃、イスラエル人は自分の偶像を造りました。神様は彼らを厳しく裁かなければなりませんでした。これはいつも繰り返しました。困っている時に神の民は何でも約束しましたが、後で守りませんでした。人が問題にぶつかった時に、助けを求めて、自分が守れないことまだ約束することは仕方がないでしょう。神様もそれほど残酷ではありません。しかし32節の中に「わたしは彼らの主であったのに」それはどうもおかしいです。神様を主として認めないと、何かは間違っています。それは罪です。これは私達人間の責任です。罪のための言い訳は認められません。

2約束された新しい契約
a)そのための前提 わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。33節
これは誤解を招きます。神様が御自分の律法を私達の心に書き記すことは、私たちは神様にプログラムされたコンピュータだ、という意味ではありません。神様は私達の心を大事にします。神様は、御心を行うためにたくさんの御使いもいるでしょう。03:19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
103:20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。
103:21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。
103:22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。神様の命令を受けて実行するために、私達人間は必要ではありません。
神様が私たち人間に期待しておられることは、神様との個人的な関係です。私たちは天のお父様と人間の子供が自分の父親と語るように祈るべきです。主の祈りには神様に話しかける言葉は『アッバ』これは私達パパの意味です。出エジプト33にはモーゼが神様との話し合いのテントを建てたと書いてあります。そして他のイスラエル人が遠くから見た時に、モーゼは神様と親しく語らい会いました。33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。特に危機の時に,イスラエルが罪を犯して、モーゼがとりなししている時に、モーゼが神様のことが理解していると明確になります。彼はいつも神様の側から討論します。例えば出エジプト32,11-14
旧約聖書には時々神様の律法を愛している人が登場します。例えば詩篇119篇。しかし神様はYesmenが要りません。神様の愛を信じて、神様に信頼する人が欲しいです。そしてがっかりした時に、私たちはこれもはっきりと言って欲しいです。自分の目的を変なトリックによって通す人は神様の御心にはかなえません。偽りは神様の道ではありません。そのためには悔い改めが必要です。

b)その中心 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。33節
これは初代教会で始まった新しい事実です。イエス様の名前によって洗礼を受けた3000人の信者達は、初めにイエス様の贖いの死によって救われた人々でした。天のお父様は主の十字架のお願いを受け入れました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23,34 教会は一人一人のメンバーのために罪の赦しを受けました。十字架で流された神の子の御血潮は、洗礼を受けた一人一人の罪を洗い落としました。みんなは神の民となりました。これはエレミア31章の約束の基礎です。「・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」34節
私たちは先週使徒、2,43などで学んだとおりに初代教会には神様の御臨在が感じられました。もちろん、これは毎日同じではありませんでした。今日もそうでしょう。ある日、私たちは明確に神様の働きを見る事があります。他の日に、私たちはもっと強く神様の御技を経験したいけれども、出来ません。
しかしある日には神様の御臨在はすべての人々に現れます。神様が教会におられることはだれも否定出来ない時が来ます。主イエス様の再臨の後で最後の審判が終わってからです。黙示21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、24 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

c) 神様との直接な関係  34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
これは旧約と新約との違いです。民が罪を犯した時に、ただ一人は神様と話す立場がありました。モーゼしか神様と語りませんでした。モーゼはイスラエル人に『主を知れ。。。』と語りました。しかし初代教会の信者達はみんなは聖霊を受けました。彼らはみんなイエス様が救い主キリストだと分かりました。そしてもし誰かが彼らに神様のことを教えようとした時に、彼らは一人一人聖書を調べることが出来ました。聞いたことが本当かどうかを確かめることが出来ました。
私は今ここで講壇に立っています。皆さんは全てを聞くことは出来ます。みなさんをチャレンジします。聖書を調べて下さい!私が言っていることが本当に聖書に書いてあるかどうか調べて下さい。私がデュッセルドルフに来た時に私は聖書に合っていることを伝えるために注意しました。皆さんは神様の御心であるという確信がないといけないからです。一人一人は神様の前に責任があります。神様との関係は先ずあなた自身の責任です。だれもあなたと神様との間に入ることは出来ません。教会の牧師も、教会の役員会もあなたと神様と間に入ることは許されてありません。
例えば教会の臨時総会には私達について正しくないことも言われました。しかし私は自分のことを弁護しませんでした。というのは悪いうわさを調べないでそのままで信じる人は新しい契約にふさわしくないです。神様の新しい契約には一人一人は祈り、神様の前に考えて決める責任があります。
旧約聖書にはアハブ王様とナボテとの物語があります。アハブ王はナボテのぶどう畑を彼から買おうとしましたが、ナボテは断りました。それでアハブ王は大変怒りました。それで女王様はアハブの名前でなナボテの村のリーダー達に手紙を書きました。21:8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。21:9 手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、21:10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。
長老達はその通りにしました。そしてアハブ王はナボテのぶどう畑を受け取って好きなままにしました。
このようなことにならないためにイエス様は新しい契約を結びました。一人一人は責任を持って神様の前で生きるためでした。

3.         神様の賜物を軽蔑するな!
新しい契約と古い契約があります。イエス様によって新しい契約が与えられました。新しい契約の特徴は、人々は神様に心より使えることです。旧約の人々はある程度神様の戒めも知っていましたが、それを自分のものにしませんでした。イエス様はマタイ15,8にこう言いました。 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。』しかし初代教会の人たちにエレミヤが約束した新しい心は本当に与えられました。リーダー達は自分の立場を守るためにトリックを使う必要はありませんでした。リーダー達は困っている人たちの状態を見ていました。多くの人々はイエス様を信じるようになりました。みんなは神様が共におられることを感じました。皆は主を恐れかしこみました。
私の今日の質問は『皆さんはこれが欲しいですか?』という質問です。あなたは神様に全ての栄光を帰するのですか?あなたは誰を一番にしますか?この教会の主は誰ですか?あなたの主はイエス様ですか?
それはあなたの決心することです。

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